能因法師はここ古曽部に住み着き生涯を閉じた僧、歌人です。
「あらし吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川のにしきなりけり」は小倉百人一首にある能因法師の和歌です。能因塚は工房から南側真正面にあります。古曽部焼は能因法師がてひねり作ったのが初めであったと言われていた時代があったようですが定かではありません。 以下は能因塚にある案内版の内容です。 伝能因法師墳 東西16m、南北25m、高さ1.8mをはかるこの小墳丘は、平安時代中頃の歌人、能因法師の墳墓と伝えられている。能因法師、俗名橘永○(○はりっしんべんに鎧の右半分、ながやす)は、永延2(988)年長門守橘元○(もとやす)の子として年まれた。若くから作歌をはじめ、文章生として官吏になった彼は、当時歌道の第一人者であった藤原長能に歌を学び伊勢姫を尊敬していたという。長和3(1014)年27才になった永○は官途を去り、出家して名を能因と改め歌道に専心するようになった。出家後の能因が、この古曽部の地に居宅を構えたことは、12世紀に成立した「今昔物語集」で古曽部入道と呼ばれていることからも碓かなことである。能因はここを拠り所として東回や西国へ漂泊の旅を重ねた。遠国から帰るたびに、能因は古曽部への愛着を深め、またこの地域の人々も、彼の独特の生活を理解し、受けいれたのであろう。封土正面の碑は慶安3(1650)年に高槻城主永井直清が建立した。能因の事蹟を顕彰するする碑文は儒学者林羅山による。周辺には、能因の歌文稿を埋めたと伝える文塚、喫茶に適する水の出た井戸としてとくに名高い不老水、花の井などがある。これらは伝能因法師墳附文塚、不老水、花の井として、高槻市指定史跡に指定されている。 昭和61年3月 写真3は能因塚の北側、南側正面とここから約500m南の西国街道沿い(江戸時代の大阪、京都、江戸を結んでいた街道)にある塚への案内(江戸時代のもの、裏に五十嵐新平の名があります)。 |
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