古曽部焼は江戸時代後期に京都で修行した五十嵐新平により開かれ、当初は地元から出る土で、そしてその後信楽の土も使用し日用雑器を中心に昭和の初めまで焼かれました。えびの文様の小皿(海老皿1、海老皿2)は有名です。また珍しい霊芝の文様もよく使われました。小堀遠州が指導した茶陶、遠州七窯に数えられるような逸品もつくられました。現在は五十嵐家の前に石碑しか残っておりませんが石碑わきに市の教育委員会の看板があります。内容は以下のとおりです。 「古曽部窯跡は、京都で作陶技術を学んだ初代五十嵐新平が、江戸時代後期(18世紀末)に開いた「古曽部焼」の窯跡である。 古曽部焼は、全体に淡い彩色や流麗・軽妙な画風、素朴な造形などを特徴とし、飯茶碗や小皿、湯呑み、酒器などの日用雑器のほか、抹茶碗や水指、茶托、香合なども焼かれた。 幕末から明治初年にかけては、料亭などの大量注文に応じてつくられることも多く、これが古曽部焼の生産拡大につながった。また、ひなびた味わいの茶器類は、京阪間の文人たちに愛好され名声を博した。4代目信平のとき(明治末年)に窯が廃され、現在では当時の様子を偲ぶことは出来ない。 なお、古曽部焼の一部は当教育委員会で所蔵し、城内町の歴史民族資料館等で展示している。 昭和63年8月 高槻市教育委員会」 平成13年9月に窯跡の側に幹線道路が開通しました。 |
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